わたしたちを神とするため [カトリック教会のカテキズム]
わたしたちを「神の本性にあずからせる」(二ペトロ1∙4)ためです。
「みことばが人となられ、神の御子が人の子となられたのは、
人がみことばに結合することで神と親子の縁を結び、神の子となるため」
(聖イレネオ『異端反駁』)であり、
「神の子が人となられたのは、わたしたちを神とするためなのです」
(聖アタナシオ『みことばの受肉』)
。
「神のひとり子は、わたしたちがご自分の神性にあずかることを望み、
わたしたちの本性を受け入れて人となり、人間が神となるようになさいました」
(聖トマス・アクィナス『キリストの聖体の祝日の聖務日課』)。
「だから、天の父が完全であるように、
あなた方も完全な者となりなさい」。 マタイによる福音書5章48節
「真理によって、彼らを聖なるものとしてください。
あなたの言葉は真理です。」 ヨハネによる福音書17章17節
キリストの洗礼とノアの箱舟 [カトリック教会のカテキズム]
くちばしにみずみずしいオリーブの小枝をくわえて戻ってきましたが、
これは土地が再び住めるようになったしるしでした。
キリストが洗礼の水から上がられた後、聖霊ははとの形でキリストの上にくだってとどまりました。
霊は受洗者の清められた心にくだってとどまります。
ある聖堂では、聖体が祭壇の上にっり下げられたはとの形の金属製聖櫃(columbarium)に
安置されています。
聖霊を表すはとの象徴は、キリスト教の聖画像では伝統的なものになっています。
その同じ日に、ノアとノアの息子たちセム、ハム、ヤフェト、
それからノアの妻と息子たちの三人の嫁がともに箱舟に入った。
創世記7章13節
そうか、そういうことだったのか。ノアの箱舟にいたのは8人、
昔のものは過ぎ去り、新しい創造がその8人から始まった。
旧約聖書で週の7日目は安息日で土曜日にあたるが、
キリストが復活した日曜日が8日目、つまり新しい週の1日目。
「キリストが洗礼の水から上がられた後、
聖霊ははとの形でキリストの上にくだってとどまりました」というのは
このノアの洪水と照らし合わせて新しい創造の訪れを語っていたんだ。
カトリック教会のカテキズム、おそるべし。
また、聖霊がくだるのは「土地が再び住めるようになった」時、
すなわち、過去の罪がきれいに洗い流された(洗礼を受けた)時、
しかし、下った聖霊がとどまるのは、キリストの上、
箱舟に戻ってきたハトはその後去っていってしまった(創世記8:11)。
洗礼という素晴らしい恵みを受けた後、わたしたちがキリストにとどまれば、
聖霊もとどまってくださる。
わたしたちがキリストから離れれば、聖霊は去っていってしまわれる。
イメージとしてはそうだが、実際は、わたしたちが聖霊から離れていくのだ。
キリストに悲しみや憤りをもたらす生活をするのは、聖霊との関係を断ち切ることになる。
クリスチャンがそういう生活をしているなら、悔い改め、赦しを受け、
「土地が再び住めるようになった」状態に戻らねばならない。
教会の終末的な姿としてのマリア [カトリック教会のカテキズム]
972 これまで、教会とその起源、その使命ならぴに将来について眺めてきましたが、
やはり最後は、マリアに目を向けて、彼女の中に教会の神秘、「信仰の旅路」にある教会の姿、
旅路の果てにある祖国での教会の姿を観想しながら締めくくるべきでしょう。
この旅路の終わりに、教会が「至聖にして不可分の三位一体の栄光となるよう」、
「すべての聖人たちの交わりのうちで」待っているのは、まさに、
教会が主キリストの御母として、また自分たちの母としてあがめているかたなのです。
「イエスの母は天上において、肉体と霊魂ともどもすでに栄光を受けているものとして、
来世において完成されるぺき教会の像であり始まりであるように、地上においては、
主の日が来るまで、旅する神の民にとって確実な希望と慰めのしるしとして輝いています」。
カトリック教会の終末論は実にシンプルにまとめることができる。
マリア様のようになること、それが聖なる者になるということ。
受胎により神と心も体もひとつになった唯一の方のように、
いつの日か、わたしたちも心だけでなく体もひとつになることを待ち望み、
その日のために準備しておくこと。
これが人生の意味、人生の終わりに起こって欲しい出来事、終末論。
天国へ行くというのは、そういうことだ。
そこには聖なる神がおられ、そこに入るものは聖なる者でなければならない。
マリア様のように。
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。 アーメン。
初めのころに戻りなさい [カトリック教会のカテキズム]
また、お前が悪人どもに我慢できず、使徒と自称しているが、実はそうでない者たちを試して、
彼らが偽り者であるのを見抜いたことも知っている。
また、お前はよく忍耐し、わたしの名のために耐え忍び、そして疲れ果てることもなかった。
しかし、お前には責めるべきところがある。
お前は初めのころの愛から離れてしまった。
そこで、どこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて、初めのころに戻りなさい。
もし、悔い改めないなら、わたしはお前の所に行き、お前の燭台(しょくだい)をその場所から
取り去ってしまう。しかし、お前には、ほめるべき点もある。
お前はニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞きなさい。
勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。
ヨハネの黙示録 2章2-7節
エフェソにもベルガモンにもいたニコライ派の人々が、誰であったかについては諸説がある。
一般には、この派の人々の考えによると、キリスト者は内的に振興をもっていさえすれば
十分であり、偶像に備えられた肉を食べることや、姦通を行うことなどは、積荷はならないと
信じられていた。
フランシスコ会聖書研究所 訳注
2354 ポルノとは、実際のあるいは見せかけの性行為を取り上げ、
意図的に第三者に提示することです。
これは夫婦が相互を親密に与え合う行為を歪曲するものなので、貞潔を傷つけることになります。
また、ポルノにかかわる人々(俳優、商人、観賞者)の尊厳を大いにおとしめるものです。
なぜなら、それぞれが他の人に対して低俗な快楽や不法な利益の対象となるからです。
また、お互い同士を不自然な世界の幻想に陥れるものです。ポルノは大罪です。
政治をつかさどる者は、ポルノ商品の生産や販売拡散を阻止すべきです。
2396 貞潔に甚だしく背く罪の代表的なものは、自淫(自慰)、私通、ポルノ、
および同性愛の行為です。
カトリック教会のカテキズム
聖書を勝手に解釈するプロテスタントの牧師さんたちとは違い、
カトリックはイエス様の言葉を真剣に受け止める。
しかし、イエス様の言葉を実践するのは、ネットで簡単にAV鑑賞ができる時代に
真っ向から対立すること。
「クリスチャン」のお医者さんや心理学者もマスターベーションやAV鑑賞を勧める時代に、
それを断固として受け入れず、「狭き門」を説くのがカトリック教会。
馬鹿にされ侮辱されても、イエス様の言葉を十字架にかけることはせず、
イエス様と共に十字架にかかる覚悟で真理を伝える。
実際問題、日本でふつうに育った男にとって、それをするのは奇跡に近い。
しかし、
つづく